手を伸ばす

 旅行に行こう、とヨハンが言い出したのはそろそろ冬が訪れるかというころのことだった。
「……俺たち、いつでも旅行してるようなもんじゃん」
「まぁまぁ、そう言わずに」
 フェリーで一晩かけてやってきた街は、今住んでいる街とどこか似ていて、でもやっぱり違っていた。
「にゃー!!」
 船から降りたとたん、リュックからファラオが飛び出してしまう。
「おい、ファラオ!」
 ファラオが走り去った先からばさささ、という鳥のはばたきの音がいくつも聞こえてきて、俺は頭を抱えた。
「なんなんだよ、おい!」
 これはさすがに叱らなければないか。追いかけようとした俺の行動を読んだのか、それとも単に飽きたのか、ファラオはのそのそと戻ってきて、再びリュックに入り込もうと俺のジーンズに爪をかりかりとたててきた。仕方なくリュックを下ろすと、自分からリュックへと消えていく。
「……うまそうだったのかな?」
 ヨハンがじっと、ファラオが追っていただろう鳥の姿を見つめてつぶやいた。俺も一緒に、再び港へと降りた鳥を見下ろす。
「……うまそうっていうか、太ってるし、でかいな」
 よその国では見かけないくらい、この港のかもめはでかくて太っていた。
「食いたいな」
 思わずもれた言葉に、ぎょっとするヨハン。
「十代、かもめは食うな!」
「わかってるって。でも、腹減ったなぁ」
 どっか、マーケットとかカフェとか食堂とか、食べられるところはないのか。かもめを見たとたん鳴り出した腹がなんとも正直だ。何しろフェリーの中では何も食べられなかったのだから仕方が無い。
「しょうがないな……」
 ズボンのポケットから懐中時計を取り出したヨハンは時間を確認して「よし」とつぶやいた。
「じゃあ、先にメシに行くか」


 ヨハンにつれてこられた先は、街中にある一軒のカフェのような建物だった。一面ガラス張りで店内が見えるが、客はまだいないようだ。客より、俺はガラスに張ってある店の名前に驚いた。
「かもめ食堂?」
 この国の文字は俺には読めない。でも、これは読めるぞ。
「え、ここってなんで日本語なんだ?」
 おそらく下に書いてあるアルファベットがこの国の文字で書かれた店の名前なのだろう。でも、なんで日本語でまで?
「まぁいいだろ。入ってみようぜ」
 言われるまま、店への階段を登る。やはりガラスのドアを開けると、そこはたぶんごくありふれたカフェだった。

「いらっしゃい」

 ……ありふれてなかった。
 店の奥でグラスを拭いていたおばさん……たぶん店長だろう……が、日本語で声をかけてきたのだ。
「え?」
 びっくりした俺を、どうやら日本語で迎えたことに驚かれたと思ったのだろう。おばさんは「あ」と小さな声をあげて、言い換えようとしたのをヨハンが止めた。
「こいつ日本人だから、大丈夫です」
 ヨハンの流暢な日本語に、おばさんも驚いているようだ。しかしすぐに気を取り直して、「どこでも好きなところに座って」と俺たちに席を薦めながらグラスに水を注いだのだった。
「はい」
 水とおしぼり、それからメニューが出される。メニューにはいたずら書きのようなかもめらしき鳥の絵が描かれていた。……もし港でかもめを見なかったら、きっとかもめとは気付かなかったに違いない。それに、メニューにも驚いた。
「……とんかつ、焼き鮭定食、豚のしょうが焼き、さんまのみりん干し……。すっげえ!」
 まるで日本の食堂のようなメニューだ。どれもこれも食べたくてたまらない。
「早く決めろよ。あ、軽く食べる分でいいぞ。トナカイ食べるんだろ?」
「そうだった!」
 この国ではトナカイを食べるらしい。サンタクロースがすんでるっていう国なのに、トナカイを食うのか……と複雑な気持ちになったけど、やっぱり気になるよな。
 しかしどれもこれも胃を刺激するメニューだらけだ、と。
「……おにぎり?」
 メニューの一番上……とんかつやしょうが焼きに目が行って気付かなかった場所に、「おにぎり」と書かれているのを見つけた。
「おばさん、おにぎりと緑茶で!」
「俺はコーヒーとシナモンロールをください」
 俺がようやく決まったメニューを言うと、ヨハンはあらかじめ決まっていたのか、俺につづけてメニューを告げる。おばさんは「かしこまりました」と笑顔で厨房に入っていった。……といっても、カウンターの裏がすぐ厨房だから、おばさんが料理をしているのは見えて、すぐにコーヒーのいいにおいがしてきた。それと、独特の香り……八橋のにおいだ。
「八橋?」
「ヤツハシ……? ああ、シナモンのにおいか」
 ヨハンの読みは当たったらしく、しばらくするとコーヒーと八橋のにおいのするパンが運ばれてきた。
「おお、八橋じゃない!」
「違うって。シナモンロールはこのへんじゃふつうにおやつなんだよ」
 あたりにただよう八橋のにおいにつられたのか、入り口のドアが開いて、どやどやとおばちゃんの集団が入ってきた。すると、おばさんは店の奥から聞いたことの無い言葉を発している。どうやらこの国での「いらっしゃい」らしい。おばちゃんたちはこの店のなじみ客らしく、おばさんがカウンターの向こうから来る前に注文をしていた。指が三つ上がっているということは、三人前……おばちゃんも三人組だった……ということだろう。
 おばさんは手早くシナモンロールをあたためて、コーヒーをセットする。そして、お盆に皿をひとつ乗せて俺たちのテーブルへとやってきた。
「いつもなら具を見せるように握るんだけど、何が出るかわからないのがいいかなって思って」
 俺の前に置かれた、三つのおにぎり。それと、湯気を立てる緑茶。
「俺、シャケを当てるのは得意なんだぜ」
「そうなの?」
「へぇ、そうなのか!」
 おばさんが驚いたのをききつけたおばちゃんたちまで、俺たちのテーブルを覗き込む。おばさんはやはりこの国の言葉で説明をしていた。……って、ヨハンは知らなかったっけ?
 ギャラリーが増えてしまったなか、俺はじっと三つのおにぎりを見比べる。懐かしい形のおにぎりは、どこかトメさんが作ってくれたものを思い出させる。……俺のドロー力をなめるなよ! 思うままに手を伸ばす。
 えいっ、とおにぎりを一つとって、それから中身を割ってみる。ほぐされた中身は、梅干でもおかかでもない。

「ほら、シャケ召喚!」

 俺がおにぎりを見せると、
「すごーい!」
 おばさんもおばちゃんたちも、あとヨハンにまでパチパチと拍手されてしまった。なんだか照れるぜ。
 もぐもぐとたいらげたおにぎりは、やっぱりどこか懐かしい味がした。


「おまえ、あの店に俺を連れて行きたかったんだろ?」
 小腹も満足したところで店を出る。街は昼近いからか活気に満ちていて市場からは威勢の良い声が聞こえてきた。
「まぁな。いい店だったろ?」
「ああ、また行きたいな」
 さてと、とヨハンが本来の目的を思い出させるように、言った。
「まず、どこを観光しようか?」

リクエスト「旅行」でした。
旅行してないように見えますが、行き先はフィンランドの首都・ヘルシンキにある「かもめ食堂」です。映画の舞台になったお店で日本からの観光客も多いとか。
映画では日本人の店長さんが日本料理を出すお店で、メインはシャケ・梅干し・おかかのおにぎり。と聞いたらもうシャケ召喚するしかない!と思ってました。書く機会があってよかったです。
リクエストありがとうございました!