夏の森



 目が覚めると世界は一変していた。
 背中を気持ち悪く伝っていた汗も、体中の水分を次々と奪っていた強い陽光もそこにはなかった。
 あるのは、背の高い白樺の群れと、それよりもっとずっと高い場所にある太陽だった。覚えている限りの熱さはなく、過ごしやすい加減の穏やかな陽光だ。思えば、身のまわりを漂う空気もどこか涼やかでまるで洗われるようだ。
 きょろきょろと周囲を見回して、俺は小さく首をかしげてしまった。状況が飲み込めない。

 ここは、どこだ?

 白樺の森。足下の土が少し濡れているのは、雨でも降ったからなのだろうか。それとも水辺が近いせいなのだろうか。水の流れる音が聞こえてくる。高く鳴くのはおそらく鳥か。姿も見えなければ、鳴き声もなじみがない。座っていた切り株から立ち上がって、またもきょろきょろと忙しなく周囲を確認する。やっぱり、覚えがない。
 そもそも、俺がいたのはこんなに涼しく心地良い場所ではなかったはずだ。
 この夏一番の暑さとテレビで言うだけあって、もうデュエルをしていようが何をしていようが暑すぎて何もかもが長続きしないからと、ヨハンと二人でブルー寮のヨハンの部屋に逃げ込んで冷房を入れたところまでは覚えている。……最初からヨハンの部屋に行けば良かったのに、何で今までそんなこと考えつかなかったんだろう?
 とにかく、ようやく暑さの和らいできた部屋の床に行儀悪く寝ころんで、眠ってしまったのだ。ってことは、これって夢なのか?
 頬に手を伸ばしてつねってみようとした瞬間。
「十代!」
 水の音より遠くから、ヨハンの声が聞こえてきた。それと同時に、近づいてくる小さな足音。土も柔らかいのだろう。木々を縫って走ってきたのは、やっぱりヨハンだった。さっきまで「暑い」とぼやいていた生気の無さが嘘のように身のこなしが軽やかだ。
「こんなところにいたのかよ。探したんだぞ?」
 まったく、手間を掛けさせて。こつん、とヨハンの指先に額を軽く小突かれる。
「何すんだよ」
 俺には、小突かれることをした覚えはない。それどころかここがどこなのかさえわからないのに。
「なあヨハン、ここってどこなんだよ?」
 こんな涼しい場所が、アカデミアのある島にあるわけがない。きっと日本でもとりわけ暑い場所にある島だし、活火山だってある場所だ。いくら水辺が近くてもこんなにひんやりとはしないだろう。
 俺の問いかけに、ヨハンは「はぁ?」と間の抜けた声をあげた。
「何だよ。俺の故郷を見たいって言うから連れてきたっていうのに、忘れるなんてないだろ」
 ……今度は俺が「はぁ?」と間抜けな声をあげる番だった。

 ――たしかに、暑くてしょうがないレッド寮の俺の部屋のカラカラ回る古びた扇風機の前で、ヨハンの故郷の話をしたのは覚えている。
 いつまでも沈まない太陽。心地よい温度と空気。広がる森とたくさんの湖。聞くだけで涼しくなってくるような話ぶりに、俺は「涼しいなら行ってみたいなぁ」ってぼやいたことはあった。
 だからって、何で寝てるうちに本当に来てるんだよ。そもそもどうやって来たんだ?

 俺が混乱しているのに、ヨハンは「ほら行くぞ」と俺の手を無理矢理引っ張ってくる。その力強さと勢いに、俺の身体は言うことを聞くしかない。
「行くって、どこに行くんだよ?」
「ベリーがいっぱい実ってるところにだよ。食べたいって言ったの十代じゃないか。せっかく探してきたってのに忘れるなよなー」
 ベリー? ……本当に思い出せないぞ?
 さらに訳がわからなくなる俺はヨハンに引きずられるようにして歩いた。途中の小さな川を飛び越え、俺を引っ張るヨハンの足は、迷うことなく一点を目指していた。
 それにしても、この森はなんとなく。
 一瞬状況も忘れて考えてしまう。
 この心地よさと澄みきった空気は、どことなくヨハンに似ている。……ヨハンが、この森に似たのかもしれない。
「どうした、十代?」
 振り向いて問いかけてくるヨハンの表情が俺を案じるものになって、俺は「なんでもない」とだけ告げた。
 強く引かれる腕は痛みを訴えているし、澄んだ空気は俺の思考までクリアにしてくれたようだ。
 ようやく、今自分が置かれている状況を思い出した。
 どうやって来たかって、バスに乗って来たんじゃないか。

「ヨハン、よく覚えてたなぁ。あんな昔のこと」
 苦笑する俺に、ヨハンは「当たり前だろ」と笑う。
「だって、俺本当に十代をここに連れてきたかったんだぜ」

 暑すぎるアカデミアの夏の日。
 レッド寮の暑さに負けてブルー寮のヨハンの部屋に逃げ込む前、カラカラと回る扇風機の前で俺はヨハンの故郷の話を聞いた。
 聞くだけで涼しくなってくるような話しぶり。沈まない太陽。広い森に点在するたくさんの湖。澄んだ空気がここちよくて、時期さえ合えば野生のベリーが食べられるという。
『そんなに涼しいなら行ってみたいなぁ。あとベリーも食ってみたいぜ!』
 そんなことを言ったのを、思い出した。
『だったら今すぐ行こうぜ! 今からならまだ飛行機だってとれるって!』
 暑さに負けていたヨハンが今すぐチケットを取りかねない様子だったから、慌てて止めた。
『俺、パスポート持ってないから無理だよ』

 まさか、何年もたって、言った本人が忘れていたことを覚えているとは思わなかった。
 ……もしかしたら、あまりに違和感のないアカデミアの頃の夢を見たのも、あの夏の日を思い出すためだったのかもしれない。
 俺は今、ヨハンとこの国の近くの国でどうにか暮らしているんだ。――俺たちの夢を叶えるために。
 そして、あの夏の日の会話を覚えていたヨハンにここに連れてこられたのだった。何も言われなかったけど。

「ようやく目が覚めたか?」
「悪い。アカデミアにいた頃の夢見てたんだよ」
 すっとぼけていた俺の言い訳でヨハンはわかってくれたようだ。「十代らしいな」なんて笑われて。
「ほら、夢じゃないって証拠にあそこのベリーを食べてみればいいよ」
 指し示された先には、赤い実のなる木があった。ベリーとつくものはイチゴとかくらいしか知らない俺には何の実かわからない。
「ほら」
 手慣れた様子でヨハンが一つ取ってくれて、勧められるままに受け取って、口に運んでみた。
「っ!? 酸っぱい!」
「目が覚めただろ?」
 完璧に現実につながる刺激に目を瞑った俺をヨハンが楽しげに笑う声が、彼とよく似た空気の中に溶けていった。


暑中見舞いその3。最初は2つと言ったのでこれをアップする予定はなかったのですが、4期終了後ネタはどこで伏線使えるかわからないのでやっぱりアップしちゃいました。(080803)
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