紳士ですから
俺は知らなかったんだ。キスって、いざやってみるとすっげえドキドキするもんなんだって。
「うわああぁ……っ」
息も絶え絶えなままレッド寮の食堂に全力疾走で駆け込んで、万丈目に「やかましいっ!」とわめかれた。けど今の俺はそれどころじゃない。
とにかく放っておくと朝のことを思い出してしまうから、我を忘れて朝ごはんをかきこむ。だし巻きタマゴとほうれん草のおひたしと玉ねぎのみそ汁は今朝もうまい。
そういや、ヨハンはだし巻きタマゴよりもスクランブルエッグのが好きだって…………っ!
「ぐわあ、思い出すな俺! 思い出すんじゃない、俺っ!」
「ええい十代、貴様煩いぞっ!!」
ヨハンのことをうっかり考えてしまったとたんに、顔が一気に赤くなっていくのがわかった。だから、思い出すなってば!
ほんの出来心で、これでくすぐったられて起きたら「朝の挨拶だぜ」と笑ってすませるはずだったキスは、思いのほか俺を動揺させた。
後ろからぶつかってみたり、肩を組んだり、そういうことならごく当たりまえにしていたけれど、あんなに間近で誰かに触れるというのは初めてだったのかもしれない。唇で感じたのは、俺より少し低い……でもたしかに温かな体温。……俺、ヨハンから熱を吸い取っちゃったからこんなに顔が赤いのかな、なんてバカなことを一瞬でも考えてしまった。
「うー」
また顔が勝手に赤くなっていく。
こんなことを俺に平気でしてくるヨハンって、やっぱりキスに慣れているんだろうか。挨拶のたびにこんなドキドキしてちゃ大変だろうな。
でも、待てよ。
ヨハンが朝の挨拶で誰かにキスしてるところなんて、見たことがない気がする。
たいていアカデミアでは一緒に行動しているし、放課後は一緒にデュエルしたり話したりしてるし、別行動をとることがあるとすれば、門限が間に合ってヨハンがブルー寮に帰ったあとくらいだ。ただ、朝はたいてい俺が遅刻ギリギリかヨハンと一緒かで、ヨハンがひとりのときは朝の挨拶でキスとかしてるのかもしれない。
……俺、何でこんなこと気にしてるんだ? わけわかんねえ。
「あーもうっ。こんなこと考えてたら味がわかんねえ」
何もかもを忘れるようにごはんを食べたけれど、やっぱり味がわからない。さっきまであんなにおいしいと思っていたのに。
万丈目が何か言ってた気がするけど、俺の耳にはちっとも入ってはこなかった。
なんとなく、ヨハンと顔を合わせづらいと思いながらもアカデミアに向かう。ハネクリボーが心配そうにしているけれど、朝と同じように笑みをつくって安心させた。
多分、ヨハンは気づいてない。アメジスト・キャットが何か言わない限りは大丈夫だろう。何も言ってないといいけど。
朝からずっと同じ謎が頭の中で繰り返されていて、正直気持ちわるい。何が気持ちわるいって、胸がちくちくしたりドキドキしたり、かと思えばどこか温かだったり、忙しすぎてぐるぐるするんだ。
「おーい、十代!」
どくん、と胸が鳴った。うわ、やっぱり気持ちわるい。
おそるおそる振り返ると、ヨハンがこっちに向かって走ってくる。
「おはよう。朝いなくなってたからビックリしたんだぜ。起こして声かけてくれればよかったのに」
普段どおりに声をかけてくるヨハンに、俺も普通に見えるように返事をした。
「お、おはよう。起こしちゃ悪いなーって思ってさ」
「ま、いいさ。今日こそDVD見ようぜ」
そういえば、昨日はDVDを見るためにヨハンの部屋に泊まったんだった。DVDを見られなかったうえベッドも半分占領してしまったんだ。
「あー、昨日はごめんな。俺、勝手に寝ちゃって」
俺が謝ると、ヨハンは首を振って笑った。
「いいって。いい夢見られたんなら良かったよ」
笑うと現れる、ちょうどえくぼが出来た位置。あのへんに、キスしてみたんだよな……って、また俺は何を考えてるんだ!
「と、とにかく教室行こうぜっ!」
こんな顔見られたら絶対変に思われる。走り出した俺の背後から「どうしたんだよ、十代!」とヨハンの慌てた声が追いかけてきた。
「で、俺はやっぱりここでこれを狙いたかったんだよ」
「うーん、でもそのコンボは相手が封じようとしてたんだよな」
「そうそう。そうなんだよ。そう思って、こっちに作戦変更したわけだ。でも……」
放課後。
俺たちはいつもどおりに実技デュエルの反省会を屋上でしていた。いつもと違うのは、俺の胸の中がドキドキしたりちくちくしたりとまだ気持ち悪いままだったことだ。
むしろ、ムカムカな部分がちょっとあったりする。
だって、俺がこんなにドキドキしたりちくちくしたりムカムカしたりしてるのに、ヨハンはいつもどおりで全然変わらないんだぜ。俺に何回かキスしてきたヨハンもこんなふうに胸がいろんなものでいっぱいになっていたりしたのかな、って考えたけれど、ヨハンを見ているかぎりそんな風には思えなかった。うう、俺ばっかりかよ。
まぁ、ヨハンとデュエルの話をするのは楽しいから、そのうちこのムカムカも消えてくれると思っている。
「結局は、こっちのカードを残しといたおかげでうまくコンボが決まったんだけど、もっとスマートに出来たかもなぁ。楽しかったけど」
「今回はこれが手一杯じゃないか? どのカードが出ても相手がコンボを邪魔してるのには変わりないんだからさ」
「だよなー。じゃ、俺の分は終わりっと。今度はヨハンの番だな」
「ああ」
俺のカードと、今日の対戦相手……一年のイエロー寮の生徒だったけど、けっこうクセのあるデッキだったな……のカードを出した順番を書いた紙を片付ける。俺が相手のカードの順番を覚えきれていないときはヨハンがちゃんと覚えていてくれるので反省会もやりやすい。
「じゃあ、俺の分はブルー寮でやろうぜ。例のDVDも見たいしな」
「そうだったな」
そうとなったら話は早い。ヨハンの分が終わったらDVDを見て、次はそっちの話になるんだろうな。考えなくてもその流れだけはわかる。カードをホルダーにしまって、紙を制服のポケットに突っ込もうとしたときだった。
「いてっ」
突然手の甲に痛みが走って、手から紙が離れた。
「うわ、やべ……っ!」
カードを出した順番が書いてある、ということは、デッキの内容もまるわかりってことだ。俺の分だけじゃなく相手のカードの手の内までバッチリ書かれているあの紙がどっかに飛んで行って、誰かに拾われたらまずい。本当なら生徒手帳のメモ機能を使うところなんだけど、ボタン押すのが大変だから滅多に使わない。同じ数字何回も押して……ってめんどうだろ。
俺の手を離れた紙は風に乗ったものの地面を這っていく。今ならまだ捕まえられる!
「風、吹くなよー!」
紙に飛び掛って、全体重で飛んでいくのを阻止しようと勢いをつけた。が、紙はそんな俺の勢いで舞い上がってしまった。マジかよっ!?
そのまま倒れた俺の目の前に、紙が差し出される。
「まったく。何やってるんだ、お前」
「うう。サンキュ、ヨハン」
俺の代わりに捕まえてくれたヨハンから紙を受け取って、今度こそちゃんと折ってポケットにしまう。
そこまで見届けてから、ヨハンはおもむろに俺の手を掴んだ。
「何だよ」
捕まれた手首より、手の甲に焼けるような、刺すような痛みを感じる。
「手から血が出ているぞ。大丈夫なのか?」
そういえば、さっき手の甲を紙で切ってしまったんだ。一直線の傷口から、血がじわりと染み出している。紙で切った傷って、どうしてか痛いんだよな。
「ああ。さっき紙で切っただけだから」
気にすることはないと告げようとした言葉は、一瞬手首からヨハンの手が離れ、そして手の甲に感じた熱のせいで喉元でとどまってしまった。
痛みをともなった熱とは違う、薄い皮膚とざらりとしたモノがもたらすものを何て表現したらいいのか、わからない。
ヨハンの唇が触れ、舌が触れ、そのたびに俺は手をふりほどきたい衝動と、そうしたくない思いにはさまれてまた胸がぐるぐるしてしまっていた。
身体中の熱が……手の甲に走っていた痛みの熱まで全部顔にのぼっていくような感覚。よくやられる『舐めときゃ治る』を実践されているだけなのに、今までと全然違う。
今までと、今の決定的な違い。
それは、キスをするときがどれだけドキドキするものかを知らないのと知っているのとの差だ。
驚くより先にドキドキがきて、俺は動けないまま固まってしまった。
「あとでバンソウコウ貼っとけよ」
俺に手を振りほどかれなかったのをなんとも思っていないらしいヨハンの落ち着いた声に、とてつもなく腹が立った。
なんで俺だけこんなにドキドキして、ヨハンは平気なんだよ。それ以前に、何で俺がこんなにドキドキしなくちゃいけないんだ。
「何、するんだよ……」
思いっきり怒りたいのに、出てきたのは弱弱しい情けない問いかけだった。
「何って、こういうのは舐めときゃ治るだろ。ほら、俺って紳士だからさ」
自分の手に俺の手をのせたまま、ものすごくかっこうつけてみせるヨハンに、また俺の胸はヘンになる。
こんなドキドキしたり苦しくなったり温かくなったり、こんな感情を俺は知らない。
これって、いったい何なんだ?
慌てて手を離すと、ヨハンは何か残念そうに肩をすくめた。
俺は一直線に伸びた傷あとをもう片方の手で隠して、絶対ヨハンに顔を見られないように先に階段を降りていく。
こんな顔見られたら絶対変に思われる。早足のまま階段を降りる俺の背後から「どうしたんだよ、十代!」とヨハンの慌てた声が追いかけてきた。
……これじゃあ、朝と一緒じゃないか!
まだ気づかない十代の空気読めてなさを表現するのは難しいですね!(3.7)
BACK