ある雨の夜



 暗い空から降りてくる雨は、街灯に照らされて銀色の糸を静かにおろしていた。
 夜だから余計に暗いと感じるのか、あちこちから漏れる家の灯りが明るく、温かく感じられる。
 ただ、俺には関係のない温かさだった。

『クリィ〜……』
 俺の肩で居心地悪そうにしているハネクリボーがオロオロした声をあげているけれど、それにかまう余裕もないほど、俺の頭のなかはぐちゃぐちゃになっていた。
 雨が冷たい。でも、傘も差さずに、雨も避けずにただただ立ち尽くす。
 今の仮のすみかとなっている古いアパート――レッド寮よりはお洒落なつくりをしてはいるけど――の屋上は、普段鍵がかけられているうえに管理人さんが鍵を持っているから簡単に入り込むことはできないけれど、俺にとってはこれくらいの高さなんてなんてことはない。誰にも見つからないのをいいことに、頭を冷やすべく雨に打たれる。……ちっとも頭なんて冷えない。それよりも、こんな状況を作り出した張本人への怒りがふつふつと沸きあがってくるのだ。
「俺は悪くないだろ、相棒。悪いのはヨハンなんだ」
 自分に言い聞かせるように告げた言葉に、ハネクリボーは本当に困った顔をしながら姿を消した。
 と、雨に紛れて、かすかなドアの開閉音が聞こえてきて、
「十代っ!?」
 足元……アパートの玄関から飛び出してきた、暗い中でも鮮やかな天色の頭が左右に振られ、固まること一刻。そのまま、道路に飛び出していった。それを見送って、ようやく俺は濡れたコンクリートに座り込む。
 ……あいつ、傘さしてなかったな。
 ぼんやりそんなことを考えて、一瞬傘を持って追いかけようと思ってはっとする。そんなことをしたら、俺が怒ってないって勘違いされかねない。――俺はすごく怒っているのだ。

『何をそんなに怒ることがあるんだい』
 呆れた声が頭上から降ってくる。雨の冷たさとあいまって、俺の心を冷やした声の主を見上げると、俺のもうひとりの『相棒』が、案の定な呆れ顔で俺を見下ろしていた。
「怒るだろ、あんなこと言われたら」
 むすっとして、再び膝に顔を埋める。ユベルは「いつまでも子供だねぇ」と溜息をついて俺の頭を軽く叩く振りをした。あくまでも振りだけだ。雨が身体をすりぬけていくように、ユベルの手は俺には触れられない。実体化させようと思ったらできなくはないけれど、今そんなことをしたら猫のように首根っこつかまれてヨハンの元に連行されるだろう。
『僕は別に怒ることはないと思うけどね。君に持つ感情としてはあいつのことを理解できるし』
「その考えが嫌なんだよ!」
 思わず耳をふさぐ。ふさいでも、頭に再生されてくるヨハンの声が消えることはなかった。


 どんなきっかけで、そんな会話になったのかはわからない。
 ただ、いつものように夕飯を食べていつものようにデュエルをしたりして過ごしていただけだったのに。
「十代、おまえってさ」
「ああ?」
 こんな感じではじまったような気がする。
「たったひとつ、自分の命より大切なものってあるか?」
 それまでの会話とは何の脈絡もない言葉。
 ――たったひとつ、自分の命より大切なもの?
 それって、こんなさりげない会話であっさりしゃべって良いものなのだろうか。
 俺が答えられないでいると、ヨハンは「へへっ」と得意げに笑って、言ったのだ。

「俺、十代のためならなんだって出来るし、命だって惜しくない。十代にだったらあげられるぜ」

 こんなことを簡単に、言って。しかも、俺にとっては一番聞きたくない言葉だったから。
 気づいたら、
「何でそんなことを言うんだ!」
 って、ヨハンを殴っていた。
 今も手がひりひりとしている。けっこう強く殴ったから痛かっただろう。でも、それくらいしないと気がすまなかった。

 俺の思考を読み取ったのだろう……超融合の影響かと思ったら、ユベルが言うには俺は単純でわかりやすいらしい……ユベルが俺に目線を合わせるように座り込んで尋ねてきた。
『もしかして、君は僕を殴りたかった?』
 静かな問いかけ。視線は俺ではない誰かに向いている気がして、
「そう……かもな。でも、無理だろ」
 小さく呟いて、笑う。

 ユベルが言う『君』は俺じゃない。
 正確には、ユベルがその身を犠牲にしてまで守ろうとした、前世の俺のことだ。
 自分を守るために人であることを捨てた親友との約束は、彼の命が尽きてもまだ、魂がある限り続くのだろう。ユベルの望む『愛』を俺が与えてやれてるかどうかは、ユベルにしかわからないけれど。
 でも、ヨハンとはそういう繋がりにはなりたくない。

「俺はもう、俺のせいで誰かがいなくなるのは嫌だし、あんな思いはしたくない。
 ヨハンの命なんていらないから、ヨハンがいてくれればいいんだって、なんでわかんないんだよ……」

 ――たったひとつ、自分の命より大切なもの。
 お前にとってのそれが俺なら、俺はお前をそうとは思えない。
 俺は、俺と自分の命を天秤にかけてほしくない。

 一瞬、ユベルの手が触れられないはずの俺の頭に触れたような気がして、はっと顔を上げる。
 ドアがガン! という音と共に蹴り開けられて……あれは痛そうな音がした……息を切らせて立っているのは、ヨハンだった。
「わかんないだろ、いきなり殴られたって」
 俺とおんなじくらい雨に濡れて、暗いけれどわかる天色の髪からぽたぽたと水滴が落ちている。水滴がつたった頬は、俺が殴った痕がくっきりと残っていて痛々しい。
「どこ行ったのかと思って探したのに、灯台下暗しってやつだな」
 ルビーがいなきゃわかんなかったぞ、と告げるヨハンの肩にはルビーがいた。
 じぃっと俺の後ろのユベルを見ているのかと思ったら、消えていたハネクリボーの気配を感じていただけらしい。
『やれやれ。僕は姿を消すよ』
 あとは勝手にやってくれと言わんばかりにすぅっと姿を消していくユベル。俺とヨハンは互いに立ち尽くしたまま、雨に濡れる。

「俺、すっげえ怒ってるぞ。いきなり殴られてさ」
 沈黙を破ったのはヨハンのほうだった。
「俺だって怒ってたんだよ。ヨハンが簡単に命惜しくないなんて言うから」
 何しろ皆を助けて自分はひとり異世界に残ったという前科がある。言ったことは本当に実践しそうな気がして、それがとても嫌だったんだ。
「俺にとって、十代はそれだけの価値があるんだよ」
「なんだよ価値って。誰だって命の価値は同じだろう!?」
 言い争うたびに、ヨハンはどんどんと距離を詰めて、あと数メートルってところまで近づいていた。互いに一触即発。これ以上近づいたらまた拳が出てしまいそうだ。
 それくらい、ヨハンは持論を曲げなかった。このわからずやめ!
「俺が十代をまもらないで、十代がいなくなったら俺はどうなるんだよ!?」
「お前が俺を守って何か取り返しがつかなくなったら、俺もお前もどうなるっていうんだ!」
 何度も堂々巡りの言い争いを繰り返して、ついに腕が届く距離までお互い近づいて。
「ああもう、何でわかんないかな!」
 ヨハンの腕が伸びてきて、今度は俺が殴られるのかと思った。

「誰だって、『たったひとつ、自分の命より大切なもの』を持って生きていくんだよ」
 身体がぎゅっとヨハンの腕に捕まって、ぎりぎりとしめられる。
「痛い、痛いってば、ヨハン!」
「痛くしてんだよ」
 俺が殴ったことへの仕返しらしい。馬鹿力にしめあげられて俺は身動きとれずにヨハンにされるがままになっていた。
「もしも、お互いがお互いをそうだと思っていたら、お互いのためにどんなことをしても生き残ろうって考えるだろ。自分の命より大切なものを失ったら、その傷を癒すのにどれだけの時間がかかるんだろうって、だったら、一緒に生きたいって思うだろ」
 腕の力とは裏腹に、言葉はやさしくしんみりと俺に染み込んでくる。
 冷たいはずの雨がどこか温かく感じられて、俺はぎゅっと目を閉じた。
「俺と一緒に生きたくないのかよ、十代」

 俺とは違うかつての俺は、人を捨てた親友に愛を捧げることで一緒に生きようとした。
 俺は、俺を自分の命より大切だと告げる友人のために何をしてやれるのだろう。
 その答えはいまだに俺の口からは出せないままだけれど。でも。

「生きたいに決まってるだろ」
 ヨハンの問いかけへの答えは決まっていた。
 それだけで、ヨハンは満足そうに笑った。
「それだけわかればいいや。俺は十代のことも俺のことも守っていくからな」
「俺もだ。……で、何から守るんだ?」
「まぁ、ほら……いろいろあるじゃん」


 雨はいつの間にか小降りになっていて、濡れ鼠のままの俺たちは肩を組みながらアパート内へと戻る。
「そういえば、このドアどうするんだ?」
 俺はネオスに上げてもらったけど、ヨハンはドアを壊して屋上に行ったんだよな。
「あー……、まぁ何とかなるだろ」
「一緒に管理人さんに怒られよう」
「おお、俺を守ってくれるのか、十代」
「お前も怒られに行くんだよ!」


遅ればせながらリクエスト企画その1
「4期終了後ネタで喧嘩して仲直り」です。
リクエストありがとうございました!(6.1)
BACK